誰にでもある話。

珍しくはない、誰にでもある話を、作ってはぼやいています。

死にたい人についての考察

  「死にたい」

   最近の社会では、この言葉は色んな場所で聞かれるようになった。口頭で語られるだけでなく、ネットにもそこら中で書き込まれてる印象がある。もう、「死ぬ」という言葉自体はそう重くはないらしい。少なくとも僕には、そこら中にある「死にたい」という言葉は、そのように写ってしまうようになった。



   僕の友人にも、そう、軽く言った奴がいた。彼は僕とかなり仲良くしてくれていた。でもある時突然そう言い始めたのだ。彼は軽く言ったが、僕には彼が言うことで、不思議ととても重く聞こえた。


僕は焦って咄嗟に、

「僕は、お前には生きていて欲しいよ」


と答えた。彼は少し困った顔をしたように見えた。その時彼は、そっか、とだけ答えた。


そして僕の大切な友人は、その翌日に血まみれになって校庭で倒れてるのを発見されたのだった。屋上から見てその真下にあたる位置に、仰向けになっていた。



   僕は、彼に言われたその日から「死にたい」という言葉がとてもとても、重く聞こえるようになった。その人たちは、どういう気持ちで口にするのであろうか。


ほんの興味本位から、僕はTwitterで「死にたい」という単語で検索をかけた。僕は、少し後悔をした。胸が痛くなった。


お疲れ様と言われなかったから。少しバカにされたから。良心が無駄になったから。電車降りる時に押されたから。汚物を見るような目で見られたから。初めてのことが出来なかったから。多くの人から見られたから。否定されたから。雨だったから。眠いから。そんなことで人間って簡単に死にたくなるんだ。店長と喧嘩したバイト帰りにテイクアウトでご飯を買った時、家に帰ってワクワクして袋開けたら違う商品が入っていて、本当に絶望して死にたくなって大暴れした。そんなことでも人は絶望できる。


絶望すること、死にたいこと、それについて人は大変軽く感じているのだろう。そして、死にたい人だって、そうじゃない人だって、自分中心で生きてる。死にたい人はただ、自分が死にたい、それで周りがどのような処理に追われるか考えずただ死にたい、と呟くのだ。そうじゃない人はただ、死にたいと思う人に対して死ぬな、と自分勝手に声をかける。相手がそれを受け取って何を感じるのか考えずただ死ぬな、と声をかけるのだ。



   僕は、自分勝手ながら、それを承知で「死にたい」という人に生きて欲しい、と願ってしまった。今だって、正直そうだ。他人に対して優しく生きたい。彼が飛んでから、僕はよりいっそうそう思うようになった。僕のかける声で、もう二度と、相手を絶望させたくなかったから。



   ある時僕の彼女が口を開いた。

「もぅ…………死にたい。」


僕は、唇を震わせながら、それでも少し微笑んでこう答えた。

「そっか。きっと、とっても辛かったんだね。

それ程なら、死んじゃっていいと思うよ。君がそう、望むなら。」


彼女は目を見開き、驚いた顔をして僕を見た。そして彼女は、目を潤ませて僕に微笑んでくれた。ありがとう、そう言いながら。